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第8回 情報リテラシー論レポート

位置情報で激変の生活習慣。

位置情報を調べることができたことで大きく変わったのは、人と携帯端末の付き合い方だろう。自宅で自分の場所が分かってもどうしようもないが、出先で自分の場所を調べることができるというのは革命である。地図が必要な状況というのは大抵道に迷っている時だし、そういう状況においてはそもそも自分の場所が分かっていないことが多いのでやはり迷ってしまうだろう。

本来、携帯電話というのは固定電話が持ち出しできるようになったものであり、そこに文字の送受信が加わっていったものである。

そして、携帯電話がネットとつながった今、状況は様変わりした。

例えば今いる場所の周辺で人気の飲食店を検索すれば表示してくれるし、

迷子になっても今いる場所はすぐに判明する。

行きたい場所があれば進行方向からその道の道路状況、当日の天気まであらゆる情報を提供してくれる。

2016年の夏には位置情報を利用したゲーム、ポケモンGOがリリースされたことも記憶に新しいことだろう。

このように、自分が今世界のどこにいるのかが分かることで、単純な利便性のみならず娯楽まで幅広い実に様々な利益を得ることができる。

 

しかし、その一方で危険もある。

どこにいるのか分かるのが自分だけではないということだ。

例えば、ツイッターで料理屋のつぶやきをしたとして、位置情報の記載を許可していた場合どこで食事をしているかは筒抜けであるし、何気なくつぶやいたつもりが個人の特定になる可能性もある。

可能性もあると書いたが、実はすでに事例があるのである。

これは先ほど挙げた例そのままであり、頑張れば個人を特定できるということの証明である。

これは比較的良識のある企業がやっているからまだ笑い話で済むが、

このように机の木目というわずかな情報から割と洒落にならないレベルの様々な疑惑が浮上することもあるため、個人情報に限らず画像や位置情報の取り扱いには細心の注意を払いたいものである。(まあ、この特定に関してはかなり稀な例であるとは思うが)

 

位置情報がわかるということにはメリットとデメリットがあることを今回は述べたが、これは他のものにも当てはまることであり、結局のところ使う人間次第だ。

位置情報が分かることで震災時にどこに逃げるのが安全か知ることもできるし、旅行先で泊まる場所が見つからない時に近辺の宿泊施設を探すこともできる。デメリットや危険性があることを分かった上でこの便利なものを活かしていきたいものである。

第7回 情報リテラシー論レポート

多様な連絡手段のインフラ化

古来インフラに当たるのは手紙であり、時代が進むにつれて電話が加わり、皆が携帯を持ち始めるとそれらはメールに置き換わったりもした。

現代において何が該当するかといえば、一概に言い切ることはできない。時にLINEであり、時にTwitterである。ザックリまとめるならSNSであろうか。ともかく、昔ならばジャンルで分けることができたものが、より区分化されて人によって使ったり使ってなかったりさえする。しかし、何かしら使っている…、そんなややこしい時代が現代である。さらに面倒なことに、メールはメールで使われ、そこに電話が併用され、何だったら手紙の温かみが見直されているために、結局全部使われている。

そしてそれらは、使う使わないはともかくとして、使おうと思えば使うことができる前提で皆生きている。それをインフラという。

 

小学生の頃から割とどっぷりネットに浸かっていた僕にとって、ネットにおけるメールアドレスの公開は危険なものであるという認識である。何かしら変なメールが来ても登録してないサイトからは来るはずがないので、確固たる意志を持ってガン無視を決めこめる小学生だった。しかし、あちこちのサイトを見ていると「★を@に変えてください」とか書いてあるので、それくらいは大丈夫だと思っていたのだが、ロボットの処理能力も上がっているようで、今はそれも危ないそうだ。

とはいえ、メールにおけるスパムの件数自体は減っているそうである。

2009年のメール総数は6兆3000億件で、そのうち9割に当たる5兆7000億件がスパムだったのだが、2015年の段階では5割以下にまで減少したそうだ。

スパムの全メールに占める割合が50%以下に、2003年以来初【レポート】 - THE BRIDGE(ザ・ブリッジ)

単純なスパムそのものの減少というよりは、ボットを弾く能力の向上などによる。「スパムで儲からない」ということが明らかになれば、必然的にスパムが減少していくものと思われるが、今はその渦中にあるようだ。

しかし、それでもスパム自体は来るし、自分でメアドを公開しないように気をつけていても、相手側の不注意で流出してしまうこともある。企業もそうだが、BCCとCCを使い分けない人がいるためである。今回の授業では2つの違いについて述べられていた。

個人対個人であれば普通で良いが、複数にまとめて送る際にはBCCとCCが用いられる。簡単に言えばBCC(ブロック・カーボンコピー)ならば他の人のメアドが表示されないようにできる。何かの行事に参加したとして、主催側がCCでメールを一斉送信すると、他の人のメアドが見れてしまうのである。例というか実際にあったことなのだが。はっきり言って信用に関わる案件なので、気をつけなくてはならないと思う。

第6回 情報リテラシー論レポート

キュレーション(情報の取捨選択)の重要性。

現代は情報過多であると言われる。僕は第2回の授業でもこんなことをつぶやいていたが、

 どうやらすでになりつつあるようだ。

 

例えば本を買いたい時、ひとたびネットで調べれば膨大な量の本の情報が出てくる。例えばカメラを買いたい時、プロからアマチュアから様々な人が自分の使っているカメラへの愛を述べている。何か料理の作り方を知りたい時、同じ料理のレシピが何十個も出てきて、最終的に目分量で作った経験のある人も多いだろう。

多くの情報を得る権利を得たということは、多くの情報から必要なものを選びださなくてはならないということでもある。だが、本来得たかった情報というのは『欲しい情報』のみであり、それ以外はノイズと言ってもいい。だからこそ、現代において『欲しい情報』にすぐアクセスできるというのはとても価値のあることだ。

しかし、『欲しい情報』を持っている立場の人が多かったり、あたかもそうであるかのように振る舞う人が増えてしまうと、それはそれでノイズになる。イタチごっこである。僕は減る方向に進むことを望んでいるが、うまくいかない。だからこそ、まとめをまとめる『キュレーション』が求められているのだろう。

 

ところで、キュレーションにもいくつか種類がある。 

僕は授業中にこんなこともつぶやいた。

 

詳細はリンク先の記事に書かれているので省くが、本のタイトルを含むあらゆる情報を省き、ただ『糸井重里のオススメ本』とだけ伝えるこの情報発信の仕方は新しいキュレーションの形と言える。授業でも『1万円分の本を選んで送る』という本屋が紹介されていたが、これも上と同じような形である。

「いくつかあるものの中から良いものを厳選する」という点は共通しているが、普通のキュレーションはその中から選ぶ必要があるのに対し、この形はそれすら必要がないという違いがある。

ただし、これらの『誰かのおすすめに頼る』という手法はある種、自己選択の機会を失っているとも言える。キュレーションのみに頼ってしまうと、自分で選択できなくなるかもしれない。

だとするならば、キュレーションをする立場の人間自身に価値があると言えるのではないだろうか。

第5回 情報リテラシー論レポート

スマートフォンと普及と課題。

スマホタブレット端末の普及は目覚ましく、街行く人は皆スマホを持っているし、例えばプレゼンをするにも、お店で何かを検索するにも、タブレット型の端末で行うことが多い。先日実家に帰った際に保険の見直しで署名したのだが、全てタブレットでできてしまって驚いた。

スマホはしばしばガラケーと比較して語られているが、どちらかといえば小さいパソコンという方が適切ではないかというほど、たいていのことはスマホ一つで完結してしまう。パソコンは家やそれなりにスペースが必要であるという課題を、携帯サイズにまで小型化することで解決したとさえ思っている。

これはちょうど、携帯電話(ガラケーなど)の普及で公衆電話などが衰退していったことに似ているのかもしれない。もちろん、通話しかできない固定電話と、メールも可能で持ち歩ける携帯電話はほぼ上位互換の関係でしかなかったためでもあるし、パソコンでしかできないこともまだまだ多いので一概には言えないが。

しかし、ウェブサイトがわざわざスマホ用に作成されたり、一方でガラケー用のモバイルサイトが終了するのを見るに、パソコンとガラケーの良いところ取りをしたスマホが勢力を強めているのは明らかである。

 

ところで「スマホは右手で持ち、右の親指で下からタップする人が多い」という話が出たが、ふとアドセンス広告のリンクバナーもスマホとパソコンで違うことを思い出した。

パソコンの場合、画像のように本来のリンクに紛れさせる形で誤クリックを誘発させるように広告が配置されているのだが、

スマホの場合は上から下へスクロールするように設計されたサイトが多いので、スクロールの際に誤タッチさせるように、真ん中から下にかけてフェードインしてくる広告が多い。

正直やめてほしいが、設置する側も必死に環境への適応方法を模索し、的確に誤動作を狙っているというのはなかなか面白い事である。

 

さて、スマホでしか検索しない言葉として僕は授業中に

 

とつぶやいた。

今思うとこれができるというのは結構すごい事である。一昔であればウェブでの検索はパソコンでしかできなかった。ガラケーでも見れないサイトは多い。現代、パソコンがフリーズした時にその対処法をウェブで検索できるのはスマホの普及のおかげである。

 

地図や時計、ゲームなど、スマホタブレットでは多くの事が可能だ。それによって売り上げが落ちたりした商品も少なくない。しかし、だからこそスマホのせいにして思考を停止させるのではなく、スマホではできない付加価値をつける事がこれからは必要である。 

第4回情報リテラシー論 レポート

多くの人がツイッターなどのSNSに活動の場を移した結果、更新が途絶えたホームページも少なくない。ホームページはまだ構成などを自由に作成できるからまだしも、文章の手軽さという点でブログが衰退したのは想像に難くないことだろう。

かく言う僕もその一人である。小中学生時代に2年ほどブログをやっていたのだが、ツイッターが話題になり始めるとそこで書いたもののまとめで代用するようになり、ついにはそれすらやめてツイッターだけになっていった。

なぜそうなったかといえば、反応が欲しかったからである。ブログは単純に書く時間がかかってしまうし、それに対するコメントも相応に長くなる傾向にあるので、発信と受信に間があるのだ。その点ツイッターは文章量が短いためにコメントも短く済む(というよりも140字までしか書けない)。このレスポンスの良さはブログではありえない。

 

レスポンスの良さといえば、授業中に僕はこんなことを呟いた。

当然ながら、本来ならばテレビ映像をネットに上げるのはグレーどころかアウトである。この震災時のことについてほぼ日でインタビューを受けた際にもこの件について触れているが、「私の独断なので、あとで責任は取ります。」と書いてある通り、これが例えば公式ブログだったらこれほどの速さで対応することはできなかっただろう。一つ一つが短いからこそ、独断でつぶやくことができたのだ。

 

もう一つ、レスポンスと拡散性というと最近話題になったのは何と言ってもPCデポであろう。

件の記事を執筆したヨッピーさんは普段オモコロというサイトでネタ記事を書くのを生業とされている方だが、打って変わって今回は真面目な内容である。

記事自体はブログやニュース記事の形式をとってはいるが、ヨッピーさんは元々ツイッターでも有名な人物であるために、ツイートをフックとしてこの記事は多くの人に読まれた。詳細は省くが、結果としてツイッター内外を問わず多くの反響や、PCデポの過去の行いなどの情報が瞬く間に集められたのはご存知の通りである。授業中も例に出てきたが、こういった拡散性はこれはまさしくスイミーのようであり、SNSの恐ろしくも面白いところである。

第3回情報リテラシー論 レポート

ネットに初めて触れたのが2009年(小学生)くらいで、当時はまだメールアドレスを持っておらず、周りにSNSをやっている友達もいなかったので、主にテキストサイトやイラストサイトを巡っていた。しばらくしてツイッターが流行始めた(中学生)が、結果として2000年代初頭的なネットの使い方と、2010年代的な使い方を両方知っているという貴重な体験をしている。なんだったら中学の頃にHTMLについて少しかじってホームページを作ったりもした。そんなわけもあってホームページ特有の『あなたは〇〇人目の閲覧者です』だとか『キリ番報告』だとか『バナー画像の直リン禁止』だとかも知っているので、今回の授業は少しそこらへんのことを考えながら聞いていた。

今回の授業で検索エンジンについて見たが、そういえばアクセスを稼ぐために背景と同じ色の文字でワードが描かれているサイトは結構あった。多分だけどバナーや特定のジャンルだけをまとめたサーチエンジンサイトとかも検索エンジンが未発達だった時代の名残なのだろう。

 

しかし、ツイッターが流行ってからはそういったことがほとんど無くなってしまったように思う。ツイッター外でホームページを管理していた人やその訪問者、あるいは漫画家やそのファンがツイッターフェイスブックなどのSNSに集結している。かつて個人ホームページでイラストを掲載して、掲示板で反応を貰って…というサイクルだったものが、ツイッターフェイスブックの誕生によって、個人でサイトを設置しなくてもより直感的に反応をもらえる状況が生まれたのである。

いわば、ネットの中にネットがあるというのが現代なのではないかと思う。点と点を結ぶ線の役目を各々がやっていた時代、サイトを繋ぐのはリンク同士だったが、検索エンジンが発達してくるとそれが文字通りネットの役割を果たした。そういった点で見ると、ツイッターフェイスブックは点と線の両方を兼ねていると言える。つまり、ネットの中にネットがあるのである。

ヤフーなどが廃れてしまった理由はおそらくここにある。例えるなら、国という集まりの中の、街という集まりがそれぞれ力を持っていて、国が口出しできないといったところだろうか。コミュニティが築けるならば人はそこで事足りてしまう。もちろんたまに他の街に行くこともあるだろうが、自給自足が成り立つならば必ずしも国という母体は必要ないのである。

今後もさらにSNSは発展を続けていくだろうが、そこに検索エンジンが入り込める余地あるかについて注目していきたいと思う。

第2回情報リテラシー論 レポート

Did you know?



世の中は知らないことばかりである。

スクリーンに映し出された様々なデータと数字。読み終わらないうちに次の情報に切り替わる映像を呆然と眺めていたが、次第に僕は「それは本当に知る必要があるの?」という点が疑問になった。

「江戸時代の人が一生かかって得ていた情報を、現代人は1日で獲得している」というのは良くも悪くもその通りで、ネットで検索すればどこにいても情報を得ることができるし、インターネットとSNSの発達によって何気なくスマホを眺めているだけでも凄まじい量の情報が入ってくる。

『情報中毒』という言葉が叫ばれて久しい。来るもの拒まずで自分にとって必要ではない情報まで得ることは、真に必要な情報のノイズになりかねない。

実際、僕自身が情報過多気味なのである。常にスマホを眺めて情報が仕入れる状況が続いているために、情報の供給が少なかったり無かったりすると、なんだか損をしている気分にさえなってくる。最近は意識的に減らしているものの、それでもテレビを見ている時にスマホをいじってしまう。きっと僕だけではないだろう。

 

一方で、昔の人が一生かけて探求・研究したことを一瞬で知ることができるというのは、のちの時代に生きる者の強みであるとも言える。昔の人は自分が地球のどこにいるのかわからなかったことだろう。しかし今はどこにいるかも、どこを通れば行きたい場所に行けるかが分かる。行ったこともないのに海外のことを知ることもできるし、見たこともないのに地球が青いことも知っている。これは実にすごいことだ。昔の人が一生かけても行けなかったであろう地球の反対側の人とさえも簡単に交流することだってできる。

 

さて、スマホによって現代人が情報過多なのは先ほども書いたが、逆に考えれば皆が同じ情報を共有しているということでもある。本当に必要な情報なのかやその正確性はさておき、知識の共有は財産の共有でもある。正確かどうかは各自で調べればいいことだし、誰かが情報を補強や訂正したならばそれすらも共有される。あらゆる情報について調べれば誰でも手に入るということは、知識がネットに置き換えられているということであり、それは取りも直さず知識を蓄えることのそのもの重要性が下がっているということだ。ネットによって知識の足並みが揃ったとするならば、現代人にとって必要なのはそうして得た知識を独自に積み上げてどう活用するかなどの創造性ではないだろうか?